新学期宜しくお願い致します。2013/01/08 19:20

 今日から3学期が始まりました。年末年始はお参りの方がありましたが、それも一息ついて静かだった園内が、また活気あふれる日々を迎えました。「昨日まではみんながいなくて、園長先生はちょっと詰まらないなぁと思っていました」というのは、始業式ごとに私が言っているセリフ(一緒に言ってくれる子もいるんです)なのですが、本当にそう感じて、みんなが来ているのが嬉しくて始業式に臨んでいます。それにしても…4月に学年が始まった時を思い出すと、子どもというのはこれ程にも成長するのかと、改めて感心させられます。不安に泣いていた(本当に泣いていたのです!)年少さんが得意気な顔を見せてくれたり、「じきに年長さん」と言われて背筋がピッと伸びる子たち、小学校という未知の世界へ思いを馳せる子ども達。8ヶ月というのは、子どもにとって十分長い時間なのですね。
 「新年」もそうですが、学期も、始まった時は常に「新」学期。新しい気持ちで(改まった気持ちで)これからもがんばって行きましょう!

新入園児保護者会2013/01/16 19:07

 今日は午後から、保護者会が行われました。これから4月に向けて、子ども達や保育の面ではたんぽぽぐみに参加して慣れていって頂くのですが、並行して用品の準備を進めて頂くお願いをいたしました。幼稚園の行事でもそうですが、具体的な物が揃ってくると、気持ちも盛り上がってきますね。例年「買った鞄を毎日さげて、幼稚園ごっこをしています」といったお話をいただきます。子ども達も、そして物を揃えながら保護者の方々も、4月からの幼稚園生活を楽しみにして下さっていると思うと、「ベストな布陣と状態で迎えよう」と、こちらの気持ちも引き締まってきます。
 来年度も、多くのお子さんをお迎えすることができ、とてもありがたく思います。PTA副会長さんと少し話していたのですが、その方のお姉ちゃんが在園の頃は、全体で100名を切っていました。それを思い出すと感慨深いものがあります。子ども達の、そして子育てをする家庭の幸せに貢献できるよう、これからも頑張っていきたいと思います。

お遊戯会練習2013/01/17 11:16

来月のお遊戯会に向けて、各学年で練習が始まりました。と言っても幼稚園児たちですので、1日の練習は短いものです。1つの演し物について、1回さらっとやってみて、おしまい。「えーっ、もっとやりたいよ〜」という声があがる程です。
 でも実は、この状態で「じゃあ、明日もやりましょうね」というのが一番よいパターンのようです。「やりたい」という気持ちを保ちつつ、一日一回の練習に集中していく。園だよりでも書きましたが、この「もっと!」という気持ちで終わるのが本当に大切なのだと思います。長いような、短いようなお遊戯会までの日々。きっと何かを得て、成長の姿を舞台で披露してくれることと思います。

雪で遊べた…ようやく2013/01/18 11:37

小林一茶記念館にて

 月曜日に雪が降り、火曜日から幼稚園の活動が始まりました。すでに道路のは溶けてしまっているのですが、園内は場所によってはまだ結構残っています。子どもというのは目敏いもので、そんな雪を集めて投げっこしておりました。年少さんの中には「初めて雪に触った」子もいたようです。自然の厳しさを直に感じることもできますから、しっかり覚えておいて欲しいですね。「どんな場所に雪が残りやすいか」を話し合っている子もいたりして、「おぉ、分析的見方の萌芽だ」と喜んでおります。別の園ではスロープを造ってソリ遊びをしたそうです。うーん、もう一回大雪になったら、やってみようかしら。

聴かせてやるのが教育なら、2013/01/19 09:33

倉橋惣三

 今日はお誕生日会です。先日考えていたことなのですが、「折角お父さんも大勢いらっしゃるのだから、何か役に立つ事でもお伝えできないかしら」と考えていました。いつかブログで書いた「家族の問題」もいい材料と思ったのですが、この間読んだ「倉橋惣三」も示唆に富んだ素晴らしい本でした。  さて、その中の一節が、このタイトルです。続きは?想像に難くないですね(惣三なだけに)。  「聴かせてやるのが教育なら、聴いてやるのも教育です」(『子どもの心とまなざしで』フレーベル館) 私たちは大人として、親として、教育者でございますと、ついつい「如何に聴かせるか」「如何に話すか」ばかりに心を向けてしまいがちではないでしょうか。しかし、もしかすると「如何に聴くか」は、それ以上に大切な事かも知れません。それは、「聴き方・聴く態度」を子どもに写していくことでもあるからです。子どもにとって「自分の話をしっかり聴いてくれた」という感覚は、共感となって大人への信頼感や安心感に繋がっていくでしょう。  勿論、何でも子ども主体にすればいいとも思いません(彼らは社会の初心者なのですから)。しかし、どちらにも偏ることなく(仏教でいう中道ですね)、両方向ともに大切なのだということを忘れず、時にしっかりと聴く=14もの心を持って耳を向ける=ことを心がけたいものです。思いがけない「面白い」話に出会えますよ、きっと。

雪のお話2013/01/21 13:12


今日のお御堂参りでは、「足あとかくしの雪」のお話をしました。雪の降る話というと、すぐ「笠地蔵」を思い出すのですが、今回は異色の、こちらを選びました。
 今回は笑いなし、しかも、貧しいお婆さんが他所の食べ物を黙って持って行く話です。単純に「人の物を盗ってはいけません」だけでは済まない心情が 、きっと子ども達にもあるのではないかと思います。
 子ども達は、シーンと聞いていて、終わりも「お坊さんは、お婆さんの幸せを祈りました」で切れるので、物足りなかったかも知れません。でも、先日の雪で真っ白に覆われた道を見た子達なら、きっと何か感じてくれるような気がします。

避難訓練を考える2013/01/23 10:34

 小学校から中学校の頃を思い出しても、避難訓練というのは「いつも同じ」という印象が私にもあります(高校時代は、なかったような気さえ…忘れたのかな?)。しかし今、避難訓練はかなり試行錯誤・変化しつつある”行事”です。
 まず、「火事だ!火を消せ!」について、火の元(ガス)を切るのはガス会社がやるようになりました(阪神淡路以来だそうです)。早く逃げる事より、防災ずきんを被るが大切なの?(今のところ、被って出ています)消火と誘導、どう配分担当する?
 地震の時、「慌てて出ない」のと「余震に備える」はどちらが優先?「寒い時期、避難する(=戻らない)なら、防寒着は必要では?」「防災ずきんとヘルメット、どちらを準備すべき?」
 今のところ、幼稚園ではそれぞれ適したと思われる対応をしていますが、「正解は?」と聞かれると「その場でなければ…」な事が多いような気がします。
 よく、幼稚園で避難訓練をすると、まとめのように「お家でも、どうするか話し合ってみてね」ということを子ども達に言うのですが、考えるべき事が無限にあり、ケースも無限に想定しなければならない気がして、つい億劫になってしまうのではないでしょうか。幼稚園としても少し踏み込んで「シート」みたいなものを紹介・提供できたらいいのかな、とか考えたりします。

先生の研修会にて2013/01/23 21:56

大棗の会
 1月のこの週、水曜日の午後は、文京区の私立幼稚園合同で研修会が開かれています。会場はここ数年、伝通院さんの淑徳SC。とても綺麗な校舎とバッチリな設備で、「お話だけ」でない研修が行われます。
 今回は2部構成で、第1部は「効果的な園内研修の持ち方」、活かすのには時間がかかる(でも大事なこと…)のですが、第2部の「胴体トレーニング」は、ヨガにも通じ?立腰にも通じ(というか、そのもの?)楽しかったです。体育館にバスタオルやマットをしいて、みんなでゴロゴロしたりストレッチのように身体を伸ばしたり。
 先生曰く、「骨盤の位置が悪いと肩こりを初めいろんな歪みが出る。正しい位置で生活すると、瘠せてもいきますよ」との事で、みんな一生懸命でした。「正座はいいです。胡座もいいです。でも横座りは、特に子どものころは厳禁。よく気をつけてあげて下さいね」とのお話でした。幼稚園で、毎日の「立腰」は1分確保していますが、これが本当に一生の屋台骨になってくれたら、とても有り難い事と思います。

参考「大棗の会」 棗田三奈子先生

吹き出しを付ける2013/01/25 11:25

体操の様子
 先日の教諭研修会であったお話です。講師の先生は「虫の目・鳥の目」という譬えを使って話していらっしゃいましたが、子どもを見る時には「共感の目」と「客観の目」、両方が要りますよというお話だったと理解しました。
 このうち「虫の目」は「ごくごく近くで、丸のまま一緒に感じる・受け取る」見方。「子どもの写真をとって、ぴったりのセリフを付ける」感覚とおっしゃっていました。子どもですから語彙は十分でないかも知れません。けれど、何かをしている姿は、子どもの内面を現しています。そこにセリフ=言葉による共感、を付けられるようになりましょう、という事です。
 一方は、もっと引いた、客観的な見方。「それは、このような流れの中(発達の段階)にあるんだな」とか「集団の中で、このような位置・作用でいるんだな」という見方です。
 それを聞いていて、思いました。「大切なのは、例えば”演奏できた・間違えた”という客観的な見方なのか、それとも”やりきった!”・”悔しいな”という感情なのか?」 もちろん同時に訪れていることも多いと思いますが、そして、時によって重点を変えて良いのだと思いますが、「子どもにとっての満足感を見る」ことは、少なくとも忘れてはならないのだということです。
 思い出すのは体操参観です。一つの技に挑戦し、終わる。「お母さん、見ててくれた?」と保護者の方を見ます。そこでニッコリ応えてあげることが大切なのだということです。「子どもが、できたか・できないか・クラスや学年の中でどの程度なのか?」それはもちろん無視するものではありません。しかし、お母さんは測定しに来るというよりも、応援し励ましに来て下さっているのが主だろうと思います。それを存分に発揮していただきたいと思います。
 時には「我が子の不甲斐なさ」を見てしまうこともあるかも知れません。しかし、そこに目を背けず「では、どうするか」を一緒になって考え、励ましていく。「お母さんが付いていてくれる」という記憶は、きっと子どもの将来を支えてくれると思うのです。

同じ言葉に2度出会う2013/01/26 20:22

 今日は、芝学園主催のシンポジウムと、その後久しぶりに銀座で映画を見ました。そして、同じ(内容の)セリフに2度出会い、印象的だったので書きたいと思います。
 シンポジウムは「いのち」をテーマにしたもので、大震災後、現地でいろいろ活動してきた方が「理不尽な死というのは、結局関係性の如何によるのではないか。”さようなら”を言わずに別れたというのが、状況よりも大きく作用しているのでは」ということを発言していました。まったく左様。小さな挨拶やありがとうは、実は大きな意味合いを持っているのだと思います。
 そして、映画「ライフ・オブ・パイ」でも同じセリフが出てきました。こちらは海で遭難して、主人公(と虎)が生き延びるのですが、回顧している場面で、「さよならを言わずに別れたのが心残り」と言っていたのです!
 私たちは厳密に言って、明日の生命は誰からも保障されていません。であれば、それを受けて行うべきことがあるのではないでしょうか。夜に眠る前の「お休み」、もちろん「さようなら」。そうして一日の区切りを付けることで、次の朝を迎えられた喜びも生まれてくるのかも知れません。何度か書いた「森信三」先生は、これを「人生2度なし、これを据え付けることこそ教育だ」と表現しておられます。
 このブログ、何人の方がお読み下さっているかは分かりませんが、「お休みなさい。今日一日お疲れ様でした」を、私から改めてお伝えしたいと思います。