都合2007/04/06 00:19

 合掌という姿は、美しいと思う。2本の手を両方曲げてあわせ、しかも2本ともが上を向く。仏教では、左手は仏様の心、右手は自分の心として、それがぴったり合うこと、それを希うことを勧めている。  右手には右手の、真っ直ぐな都合があろう。左手には左手の、真っ直ぐな都合が。それを双方が曲げてしか、合わせることが出来ない。それを私が美しいと感じるのは、きっとご先祖様たちが、それを美しいと、大切だと、して下さってきたからだろう。 社会生活を始めたばかりの子ども達。それぞれ真っ直ぐな思いを持っている。それを大切にしつつも、時に断ち切っていくこともあるのが、「教育」の一つの姿ではないかと思っている。

花びらで遊ぶ2007/04/08 20:07

もう桜はすっかり終盤になってしまい、風が吹く度に、雪のように花びらが散ってゆきます。そうするとムズムズと…取りたくなりませんか。 これがやってみると中々難しいものです。真っ直ぐに落ちてくる事は殆どありません。風に流され、時には急に向きを変えたり、大きく動かした手の風でサッと逃げたり。その変幻自在さが面白いのです。 もう一つ。一枚いちまいの落ち方も様々なことに気づきました。そのまま落ちてくるもの、回りながら落ちてくるもの、揺れながら落ちてくるものと、これまた千差万別なのです。きっと同じ木から、同じタイミングで落ちてきているのですが一枚いちまいが違う。個性というと大袈裟なのでしょうが、それぞれに理由があるんだろうな、と思うのです。

お天道様が2007/04/17 21:18

お天道様が…と来れば、「見てござる」なのだけれども、今時こう答えられる子どもは殆ど居ないことでしょう。「おてんとさま、って?テントウ虫の王様?」と出てくれば拍手喝采。天道虫ですからね。 さて昔の人たちは、「誰が見ていなくても、自分の行いは評価され返ってくる」と思い、「閻魔様に舌を抜かれるよ」とか言って子どもを育ててきた訳です。でも今時、私でさえも「閻魔様が…」とは言ってきていません。でも、これって結局は、自分の中に自分を律する目を持つ、言い換えれば良心を育てることだったんですね。人間は生活体験から学んでいきますから、「隠れていれば、”悪い”ことしたって平気」という経験を繰り返すと、いつの間にかそれが身についてしまいます。それが将来、どれだけ自分を窮地に追い込むか。社会の狭さもあったのでしょうが、「まっとうに生きる」ということの大切さが、本当によく分かっていたのだろうと思います。今日を生きることは、毎日を生き続けること。改めて肝に銘じ、精進して参りたいと思います。

視線を合わせる2007/04/22 20:18

 この間、某衣料量販店に、2日続けて入った。池袋と地元で。このお店で買ったことは殆どなかったのだけれど、驚くほど印象が似ていた。レジ係の。 代金を払うにしても、裾直しを受け取るにしても、カウンターに行くと必ず1回は視線が合うのだ。そして何か一言。 あそこまで視線が合うというのは、必ず全員きちっと教育しているからだろう。単に買い物をした、というだけでなく、「人との繋がりを再体験した」というのが、もしかして人気と拡大には関わっているのかな、と思った。