目と手の働き2011/10/02 10:23

先日、卒園アルバムを見ていて、ふと思いだしたことがあります。それは、私自身の小学校の卒業アルバムです。もちろん幼稚園から大学まで、何冊か持っているのですが、何故か当時から非常に残る言葉が、「先生からのはなむけ」として書かれているのです。「目は遠くを見、手足は近きところで働け」。細かいところは多分違いもあるでしょうが、概ねこういう言葉です。体には、目もあり手足もあり、両方働きは違います。そして、それらがそれぞれの働きを全うすることによって、私たちは生きています(基本的に)。目だけが遠くを見て、「ああしたい、こうしたい」と言っても言葉しか動きません。一方、手足がバタバタしているだけでは、いつまでも迷うほかありません。そして、かなり色んな場面で、この「2つの視点を持つこと」は有効なのだろうと思います。子育てにしてもそうです。日々の世話という視点と、「子育てのゴール」という視点を、両方持たねばならないのでしょう。「ゴール」といえるのは「自立すること」なのでしょうが、それに至る経路は全員がそれぞれ、異なるのだろうと思います。もちろんある程度似通ったものにはなるのでしょうが、本質的には個別です。まさに「自立」というゴールにたどり着くまで、親(個別)の保護や援助が必要なのだろうと思います。

宝物2011/10/06 20:45

今日は、小さなビニール袋を水風船のようにして持っている子がたくさんいました。「どうしたの?」と尋ねると、嬉しそうに、でも大切そうに見せてくれました。中には金木犀の花が。例年、この運動会の時期になると、一斉に花が咲き、園内のいろんな所で甘い匂いがします。それが落ち始めたので、きっとたくさん拾ったのでしょう。そして、暫く前から流行っている「色水作り」がきっと繋がったのでしょう。大抵の花は、一年間のうち、ほんの僅かな時間しか咲きません。そして強烈な印象を残していきます。残りの300何日かは、じっと花を育てているのではないかと思います。 子ども達の成長は、日々留まることはありません。しかし、この花のように、パッと咲く日がやってきます。それは、もしかすると週末の運動会かも知れません。特に年少さんにとっては初めての大舞台。子ども達の笑顔が沢山咲くといいな、と思います。

みんなで すばやく2011/10/07 14:06

今日は、年長組の運動会練習を見ていました。3曲を踊るのですが、曲によって小道具がそれぞれあり、曲間にその交換をするのです。2曲目の道具は、大きなフラッグ。ここ何年かの流れで、本人の名前が入っています。大きな籠にはいった、たくさんのフラッグ。なるべく早く自分のを持たなければなりません。そんな中、ある男の子が、「はい、○○君だよ!これ、○○君!」と、どんどん配っていました。結局本人は最後になったのですが、グループとしては早いセットアップができました。ああ、いい姿だな、いい育ちだな、と、踊りが始まる前からとても嬉しくなってしまいました。

運動会の御礼2011/10/08 22:20

今日は、お陰様で成功裏に運動会を開催することができました。子ども達・保護者の皆様、ご関係の皆様、そして文京区・近隣の方々のご協力、そして教職員のみなさん。本当に、みなさんのお蔭で今日の運動会はできたのだと思います。今年は、天候に恵まれ、殆ど予定通りに練習ができました。しかも、例年より高い効率で練習が進んでいたと思います。そこには教諭のみんなの創意工夫があったと思います。保護者の皆様には、今回も沢山のお手伝いをいただきました。学年によっては、衣装のご準備をしていただきました。また、昨年より行われた「ゆづりは」的な活動も、喜ばれていると思います。観客の皆様、皆さんの拍手で、子ども達はどんなにか「自分は認められている、応援されている」と自信を持ち、勇気づけられたことでしょう。走ったことも、転んだことも、勝ち負けも、涙も、起きたこと全てを手放しで褒められる。そんな機会だったと思います。そして、子ども達の頑張りに触発された大人の方も多かったと思います。「あの一生懸命さ、頑張りは、年齢関係なく素晴らしい」と。子ども達を中心に、大きなエネルギーの生まれた一日だったと思います。改めまして、本当にありがとうございました。

芽が出てきたよ!2011/10/15 13:38

今日から、来年度に向けての願書配布が始まりました。そして、畑では、秋蒔きの種が発芽して、かわいい葉がたくさん茂っています。畝でない所からも生えているのはご愛敬。種がこぼれちゃったのですね。年長さんは「本当にジャックと豆の木みたいになったらいいなぁ!」等と話していました。矮性なので多分60cm位にしかならないと思いますが…。ともあれ、畑というのはがんばってみても一年で2つの野菜を育てるのでやっとのようです。この貴重さが、実は全ての野菜、全ての食べ物に通じるものだということまで、できれば伝えていきたいと思います。引き続き、水やりや間引きをして、「種植えから食卓まで」の全てを経験させてあげたいです。

おしゃべりダメよ2011/10/17 11:28

今日は久しぶりのお御堂参りでした。子ども達もすっかり慣れた感じで、混乱もありません。座るとすぐに、話を聞く体勢ができていることを感じます。「そろそろ秋になります。園内の葉っぱが、色んな色に変わるよ」といった前振りをしていました。 今日のお話は「おしゃべりな王様」 http://hukumusume.com/douwa/pc/world/10/11a.htm からの引用です。「おしゃべり」の問題って、きっとすごく昔からあるんだろうな、と改めて思いました。そして、亀も「怒ったこと」がきっかけになっているのは示唆的だなぁと思いました。昔話は、題材として使うと色々と奥深いですね。

和する 同する どう違う?2011/10/19 21:25

 最近、竹田恒泰『日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか』を読みました。このタイトルすら少し恥ずかしい私ですが、「ミシュランガイドで東京版が一番星の数・三つ星の数が多い」などという記述を見ると、「おおっ、すごいな」と思ってしまいます。さて、日本論であるのですが、人気のある理由として「日本が和の精神を大切にしてきた」ことを挙げています。そして、『論語』を引いて、「和」とは主体性を堅持しながら他と協調すること、と述べています。確かに、日本は何でも吸収してしまう力があると思います。仏教しかり、アメリカ文化しかり、遡れば漢字もそうですし、国内平定時(大和朝廷)も「相手を滅ぼす、相手の文化を根こそぎ破壊する」ことはしてこなかった人たちです。(この辺り、植民地とか十字軍とかを引き合いに出すと分かりやすいと思います)そうやって、対立した相手から吸収し、消化してこそ、文化は豊かになるのだと思います。面白いのは、「同」とは違うと論じているところです。相手のいいなりが「同」。最近の外交を見ても、それは歎いていました。 結局、日本の幼稚園も「和」を大切に育てていると思います。まさしく「主体性を持って周りと協調する」。かなり高度な人間関係です。そして、それを支えているのが日本語なのかな…と思ったりもします。もしよかったら、どうぞご一読を。

小石川植物園2011/10/21 13:43

 今週、たんぽぽぐみさんは小石川植物園へお散歩に行きました。台風の影響で休園があったり、放射線の心配があったりと、例年とは違った点がいくつかありましたが、自然に囲まれた時の子どもの反応は、例年と同じように元気いっぱいでした。普段はあまりお喋りしない子がたくさん話しかけてくれたり、「大人しいのかな」と思っていた子がたくさん走ったり。いつもと違う側面を見せてくれました。そして、心配だった放射線量も幼稚園と同程度ということで(一応)一安心。でも、一年はご辛抱。小学校によっては、校外学習を見合わせているところもあるそうです。「安全か・危険か」という評価はそれぞれで判断するしかないのだろうと思いますが、なかなか厄介な問題です。幼稚園も、もう暫く節電しながらいきたいと思います。

お猿の地蔵さん2011/10/24 14:08

 今日のお御堂参りでは、「猿地蔵」のお話をしました。最近、野生動物が迷い込む事件が起きており、子ども達もテレビなどで知っていると思ったのです。昔も畑は動物たちに荒らされていました(農耕を始めて以来の問題でしょうが)。困った村人は、お爺さんを変装させたお地蔵様を建てます。案山子のような役目を期待したのですね。しかし、サルたちはありがたがって、自分達の巣へ運んで行ってしまいます。そこで盗まれた農作物を取り返したお爺さん、村へ帰ってきました。子ども達が面白がるのは、川を渡るときの歌「お猿のおしりは濡らしても、お地蔵様は濡らすなよ」の所で、お話でも欲張りじいさんが笑ってしまい、川に落とされてしまいます。しかしこの話、「猿がお地蔵さんを大切にする」というのが、坊主たる私には結構興味深いのです。仏教も他のあらゆる宗教も、人間が作ったと言って間違いありません。しかし、歴史を経て現代に伝わるまでには、時代時代の変遷に堪えうるものでなければなりません。その過程では、当然変質が起きているはずです(鎌倉仏教・浄土仏教もその類の筈です)。そして、日本の場合は四季や自然現象に非常に近寄っていきました(無常観はじめ)。その一つの表れが「猿もお地蔵さんを有り難がる」なのかもしれないと思ったのです。そして、人間だけでなく猿も「生きること」に悩み・苦しんでいると捉えたのかなと。たしかに、私達も「けだもの」も、生きているのは同じです。お地蔵さんは人間だけの為ではない。そんな大らかな日本の文化を、垣間見た気がします。

自我と自覚2011/10/25 18:32

 今日は、本年度2回の「縦割り保育」でした。クラス同士の交流なのですが、特徴は「他学年との交流である」という事です。つまり、ペアになったりするのが必ず「年の差のある子」同士、なのです。前回は少し緊張気味だった年少さん達も、今日は随分落ち着いて参加できていたようです。先生方の日誌を見ていると、年上の子たちが、小さい子たちの気持ちを汲み取ったり、丁度良く手加減してくれたりする姿が浮かび上がります。きっと、自分たちが嘗てしてもらったように、次の子達に返しているのでしょう。さて題の「自我と自覚」ですが、似て非なる物のような気がします。自我は、自分の内面から沸き立つもので、自覚は外との交流によって気づくものという感じです。「私はこうしたい」という直球(あるいは「球種」)に対して、「周りに対して、この人に対しての自分の立ち位置」という「投球術」ではないかと思うのです。どんなにストレートが得意(自我)なピッチャーでも、相手によってはボール球も投げる(自覚)、という喩えを考えてみました。この辺りも先日の「和」に繋がるような気がします。